『マテリアル・カンパニー』

作ナイトビダン様



<水沢香奈>

第六話 闇深き世界へ

ドアの奥から顔を出したその女性の瞳を見たとき、果たしてこの人は本当に生きているのだろうか、と水沢香奈は思った。
それぐらい彼女の表情は生気という気に欠けていた。
血の流れを感じさせないほど青白い顔、そして落ち窪み暗くどんよりと濁った両目。
これはまるで死人の目だ。
「あの…か、片桐恵美子さん…ですよね?」
「…あなた…誰よ」
「御夜咲瞳先生のことで聞かせていただきたいことがあって来たんです」
香奈はこのとき確信を持った。
この女性はきっと御夜咲先生の行方について知っているに違いない、と。
なぜならば、彼女の表情が「御夜咲瞳」の名前を聞いた途端に変化を見せたからだ。  
「知らない…。私はなにも知らないわっ」
何に怯えているのか、彼女は語気を荒げ、慌ててドアを閉めようとする。
香奈は咄嗟に右足をドアの隙間に差し入れた。
「ちょっと待って!聞きたいことがあるんです!」
このときドアチェーンが外されていたことも幸いした。
少し強引かとも思ったが、香奈は思い切ってそのまま彼女を玄関に押し込み、自分も玄関に踊り込んだ。
「す、すいません。どうしても私…恵美子さんに聞きたいことがあるんです!」
ドアを閉めた香奈はすかさず頭を下げて非礼を詫びた。
怒声を浴びせかけられることを覚悟していたが、以外にも恵美子からの反応は無かった。
ゆっくりと顔を上げてみる。
その視線の先では恵美子が両足を左右に大きく開いたまま仰向けに倒れていた。
彼女が全裸に近い姿でいることにこのとき初めて気付いた香奈は思わず視線のやり場に困ってしまった。
「あ、あの…大丈夫ですか、変な所を打たなかったですか?」
恵美子はピクリとも動かない。
「ちょ、ちょっと…」
「大丈夫よ…」
不意に上体をむくりと起き上がらせた恵美子を見て香奈は思わず悲鳴を上げていた。
彼女の仕種や動きはあまりにも不自然で不気味としか言いようがなかった。
「わ、私、御夜咲先生のことを聞かせてもらえればすぐに帰りますから」
「だから言っているでしょう…私は瞳のことなんか知らないわ」
乾ききった唇を震わせながら彼女は答えた。なぜかその目線は宙を漂っており、正面に立つ香奈に向けられてもいない。
香奈は奥歯を噛み締めた。このまま引き下がるわけにはいかない。
この数ヶ月、必死の思いで御夜咲瞳の行方を追い続けてきた。
親友の本庄亜里沙との音信も途絶えて久しく、誰の助けも得られないままわずかな手掛かりをたどってやっとの思いでこのマンションに住む片桐恵美子の行方を突き止めてきたのである。
その彼女を前にして、どうして今更諦めることができようか。
「知らないって…知らないはずがないわ!御夜咲先生がいなくなったあの雨の夜、あなたが先生を呼び出したことはわかっているんです。
教えてください、先生をどこに呼び出したんですか?」
香奈は両拳を固く握り締め、玄関に仁王立ちしたまま恵美子を睨み付けた。
しかし、香奈はふと不安にもなった。
――これが本当に御夜咲先生の言っていた片桐恵美子さんなのかしら?
いつか御夜咲瞳から聞かされていた、一流商社に勤めるキャリアウーマンという恵美子と今、目の前で要領の得ない様子の半裸の女性ではそのイメージが違いすぎるのである。
あえて今日は普段着慣れないグレーのスーツとタイトスカートという社会人としての正装でここに出向いてきた。
それは香奈の恵美子に対する当然の礼儀であった。
ところが結果として彼女の前に現れたのはキャリアウーマンどころか、悪く言えば場末の風俗嬢にしか見えない女であった。
突然の来訪者に恵美子は驚いていた。しかし香奈自身もそれと同じくらい、いや、それ以上に驚き、動揺していた。
「あなた…瞳のなんなの?」
恵美子の目に少しだけ感情の光が灯ったかのように見えた。
「わたしは…教え子です」
「教え子?…ふうん、本当にそれだけなのかしら」
恵美子が鼻で笑ったように見えた。
瞳と自分の人に言えない肉体関係を見透かされたのではないか、と香奈は思った。
「…も、もちろんです。他に何があると言うんですか」
「あの女は昔からそういう趣味があったからね」
乳房の乳輪が透けて見えるほどに薄いネグリジェの裾を整えながら立ち上がった恵美子は甘く蕩けるような口調でつぶやいた。
「さみしいなら瞳の代わりに私が慰めてあげるわよ」
「や、やめてください!私はそんなつもりでここに来たわけじゃありません!」
香奈は恵美子が差し出してきた右手を反射的に払いのけていた。
「え…なに?」
香奈は掌に残った奇妙な違和感をもう一度確かめてみる。
少なくとも彼女が医学を学んでいる人間でなかったならば、その微妙な肉体の違和感には気付かなかったであろう。
「あの…どうして、あなたの腕はそんなに冷たくて硬いの、恵美子さん?」
それはなにげない質問であった。しかし恵美子が見せた態度は香奈にとってまったくの予想外のものであった。
両目を大きく見開き、柱にすがりつくようにしゃがみこんだ彼女は自分の肩を掻き抱きながら全身を震わせ始めたのである。
「な、なんで、どうして…わかっちゃうの?…ち、違う…違うのよ、違う、違う、いやぁ、そんな目で私を見ないで…。
私は、私は、人間よ!人間なのよ!」
「ちょ、ちょっと恵美子さん、どうしちゃったんですか!?」
ひたすら喚き散らす恵美子の様子が尋常では無い。
香奈は慌てて靴を脱ぎ捨てると、うずくまる彼女に駆け寄った。
「落ち着いてください、恵美子さん。もちろんあなたは人間ですよ、人間でなければ何だと言うんですか?」
「わ、私は…う、うげえっ」
恵美子が嘔吐した。
そのとき香奈は自分の目を疑った
今、彼女が床に吐き出した真っ黒な液体。これは一体なんだというのか。
粘液質のその黒い液体からは鼻を突く刺激臭が漂ってくる。
「これ…もしかしてオイルか、何かの潤滑油?…どうしてこんな物が人間の口から出てくるのよ?」
激しく咳き込み続ける恵美子と香奈の視線が交わったとき、恵美子の表情が崩れた。
「いや、いやあっ、見ないで、見ないでえっ」
「ま、待ってください、恵美子さん!きゃあっ!」
両腕で突き飛ばされた香奈は痛む腰をさすりながら、部屋の奥に逃げ込んでしまった恵美子を追いかける。
彼女はこのとき動きにくいタイトスカートをはいて来たことを激しく後悔していた。
「あっ」
部屋に足を踏み入れた香奈は足元に転がっていた空き缶につまづき、前のめりに倒れ込んでいた。
この部屋は昼間だというのに薄暗い。窓に厚いカーテンが引かれているからだ。
「うぷっ、なにこの臭いは」
眉をひそめながら身体を起こした香奈は部屋に立ち込める異臭と物の散乱ぶりに顔をしかめた。
このような不衛生かつ悪臭の漂う部屋で人間が生活できるものなのか。
香奈は鼻と口を手で覆いつつ、部屋を見回して恵美子の姿を追った。
恵美子は部屋の隅に背中を見せてしゃがみこんでいた。
その身体は無造作に上下しており、激しい息遣いと何か小さい物を噛み砕くような音が聞こえてくる。
「え、恵美子さん、あの…何を食べているんですか?」
自然と声が震えていた。やはり目の前の片桐恵美子はおかしい。
香奈はいつの間にかカラカラに乾いていた喉を大きく鳴らした。
「え、恵美子さん…ちょっと、こっちを向いてください」
恵美子の動きが止まった。
彼女がゆっくりと振り返る。
その彼女の顔を見たとき、香奈は声にならない悲鳴をあげてのけぞっていた。
両目を赤く爛々と輝かせ、その口いっぱいにカプセル錠剤を頬張った恵美子は怯えて後ずさる香奈の姿を見て哀しげな悲鳴をあげた。
「薬が…薬が効かないの…気持ち悪い…頭が痛い…いつもならすぐに治るのに…薬が効かないのよぉぉぉぉ」
「え、え、恵美子さん、あ、あなたは一体…」
「うげえっ」
口の中の錠剤を吐き出しながら恵美子はお腹を押さえてうずくまった。
そこで香奈はまたもや驚くべき光景を目の当たりにしていた。
煙である。恵美子の抑える腹部から細い黒煙が幾筋も立ち昇り始めたのだ。
まるで何かの電気配線がショートしたかのような臭いが周囲に立ち込める。
「もうわかっただろう。そいつは人間じゃねえんだよ」
突然、声をかけられ、香奈は後ろに振り返った。
もうひとつ奥の部屋に通じる襖口に男が立っていた。
短く刈った髪を茶色に染め、両耳と鼻にピアスをはめている。そして無精髭を生やした顎がガムを噛んでいるのか上下に動き続けていた。
鼻先にかけた丸いサングラスの下の性酷薄な眼がさらに香奈の嫌悪感を煽り立てる。
「人間じゃないなんて…どういうことですか、それにそもそもあなたは誰よ?」
「言ったとおりだ。そいつは人間じゃねえ、俺様の性欲処理人形なんだよ」
「せ、性欲…処理人形!?」
男の口が黄ばんだ歯を見せて笑みを浮かべた。
「こいつはなあ、俺に捨てられたくない一心で人間をやめちまったんだよ。まあ、俺がムリヤリやめさせたと言った方が正しいかもしれねえけどな」
香奈には男の言っている言葉の意味が理解できなかった。
人間でなくなってしまったと言うのなら、それでは恵美子は何になってしまったというのか。全く想像の範囲を超えてしまっている。
「わからねえかなあ。こいつの中に詰まっているのは機械なんだよ。
とは言っても商売物の人工性器意外は安物の人工臓器に交換しちまったからなあ。おい恵美子、その様子じゃあ、もう寿命だ。諦めろや」
男のあまりに冷たい言葉を受けて恵美子はすすり泣き出した。
「ひどい、ひどいよ…好きだって言ってくれたから…愛しているって言ってくれたから手術を受けたのに…あなたのためにサイボーグになったのに…手術が終わってみればこんな欠陥だらけの身体に改造されていて…」
「手術代は俺が負担してやっただろうが。…まあその分はおまえの新しい身体でしっかり稼いでもらったがなあ。
それに臓器もいい金で売れたしな、いいじゃねえか、これも人助けだぜ、人助け。ひゃひゃひゃ」
微塵も悪びれずに男は声をあげて笑った。
それを見た恵美子の顔が苦悶に歪んだ瞬間、煙を噴き出していた腹部が大きな破裂音と共に火を噴いた。
短い悲鳴をあげて仰向けに倒れた彼女の腹部からはなおも激しく火花と炸裂音が巻き起こる。
香奈は倒れたまま悶え苦しむ恵美子を見かねて駆け寄っていた。
「ひっ、こ、これは、嘘…」
恵美子の引き裂けた腹部にはぽっかりと穴が開いていた。そしてそこから得体の知れ無い金属製の臓器が露出していたのである。
それは火花を撒き散らしながらショートを繰り返しており、その殆どが破損もしくは真っ黒に焦げ付いている惨たらしい状態となっていた。
「あ、あの…え、恵美子さん…しっかり、しっかりしてください!」
恵美子が香奈の呼びかけに応えるように顔を上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私、彼に捨てられたくなかったのよ…だから組織に瞳を…許して…私を許して…」
「え、恵美子さん、今なんて言ったんですか。やっぱり御夜咲先生は、御夜咲先生は…!」
「…わたし、まだ、死にたくない…元の人間にもどりたい…ぎゃっ!」
一際大きな電流のショートが恵美子の全身を駆け巡り内蔵回路を焼き切った。
香奈の腕から転げ落ちた恵美子の瞳から急速に光が失われてゆく。
うつ伏せに倒れた彼女が香奈の呼びかけに答えることもなく、そのまま生命活動を停止したのはそれから間もなくのことであった。
「そ、そんな恵美子さん…」
香奈は動かなくなった恵美子を抱き起こし、その顔を覗きこんだ。
まるで電源が切れた玩具のように彼女の頭はカクンと前に倒れた。
言葉が出ない。そして息を飲んだ。
「こんな、こんな夢みたいなことがあるわけない…」
声がうわずっていた。
確かに以前、御夜咲瞳とサイボーグ開発について語り合ったことがある。
世界各地で人間の肉体を機械化するという研究開発が進められているということであったが、しかしそれでも内心では人間そのものを全て機械にしてしまうなど現実にありえる筈が無いと思っていた。
そもそもそんな人を人とも思わない非道な行為が許されるわけが無いではないか。そう思いこんでいた。
「だが夢なんかじゃなくて現実なんだよ、これがなあ」
男の嘲るような笑い声を聞いて、香奈は玄関へ向かって跳ねるように飛び出していた。
逃げよう。とにかく逃げなくてはいけない。
ここは尋常な人のいる空間ではない。
しかしタイトスカートでは思うように走れず、足がもつれる。駆け出したくても恐怖で腰が定まらない。
まるで犬か猫のように四つん這いになりながら香奈はやっとの思いで部屋を這い出た。
靴など履いている余裕はない。
外へ。とにかく今は外へ。
ドアノブにすがりつき、両手で握り締めて回す。
開かない。
鍵がかかっているのだ。オートロックを外そうと指を伸ばすが、全身を襲う震えが指先の自由を奪っている。
涙が溢れ出してきた。どうして思うように動いてくれないのか。
「助けて…誰か、助けてぇ」
小さな掠れ声が香奈の口からやっとのことで発せられた時、震える指先がロックのつまみを掴んでいた。
一瞬だけ浮かんだ安堵の笑顔。しかしその笑顔を凍りつかせたまま、香奈の視界は回転していた。
「い、いやああああっ!!帰りますからっ!わたし帰りますぅぅぅっ!!」
香奈は両足を掴まれ、そのままずるずると部屋の中へ引きずり戻されてしまっていた。
「恵美子が壊れちまった責任をあんたに取ってもらわなきゃあなあ」
「ええっ!な、なんで私が、関係ないっ!私は関係ないっ!いやああっ!!」
うつ伏せの状態から上体を起こし、香奈は腰にしがみついている相手を顧みて、またもや喉の奥から搾り出すような絶叫をあげていた。
恵美子だ。恵美子がいる。
先ほど息を引き取ったはずの恵美子が髪を振り乱し、身体から火花と煙を巻き上げながら、まるで幽鬼の如く頭をすりつけて腰にしがみついているのだ。
ゆっくりと顔を上げる恵美子の黒い体液で汚れた唇が大きな笑みを浮かべた。
「ゴ主人サマノ…ビビッ…ゴメイレイ…デス。捕獲…ホカク…マテリアル…捕獲シマ…ス…」
感情の無い赤い瞳が不気味に輝く。
「脳みそが死んじまってもとりあえずは補助電子頭脳のバッテリーで少しの間は動くみたいだな。さすが組織のサイボーグは物が違うよなあ」
男は恵美子を足で蹴り倒すと、代わって香奈の背中に馬乗りになった。
「ちょうど組織に納品するマテリアルのノルマが足りなくて困っていたんだ。
あんたみたいに若くて健康な素材…それに男好きしそうな美人はいい値段で買い取ってもらえる、ひゃひゃひゃ、俺もついてるぜぇ。
これで恵美子みたいな安物じゃなくて高級セクサボーグを買えるぜえ」
男の口走った内容を聞いた香奈は蒼白となった。
売られる。
それも恵美子と同じサイボーグにされる材料として売られる。
「い、いやっ!やだっ、やだ、やだ、やだ、やだああっ!離して、帰してっ、いやああっ!!」
男はなおも逃げようと両腕を前に出して這いずる香奈の腕を掴むと腰の後ろで押さえつけた。
「こら、おとなしくしろ。もう諦めて人間やめちまえって。おらっ」
男は香奈の頭を鷲づかみにして床に二度、三度と叩きつける。いつしかそこには赤い斑点がいくつも浮かんでいた。
「うえっ、うええ…」
「今度、騒いだら鼻血程度じゃすまねえぞ、こら。腕の一本や二本無くても脳みそ残っていればサイボーグの素材になるんだ。どういう意味か、わかるだろう?」
男の鼻先にガムテープが差し出された。
「御主人サマ…ドウゾ御使イクダサイ…ビビビ…」
傍らに正座して控えていた恵美子である。
媚びる様な緩んだ微笑を作っている機械人形から受け取ったテープで香奈の手首を拘束した男は、次にポケットからプラスチックの注射器の束を取り出した。
キャップを口で外し、薬が針先から軽く噴き出すのを確認する。
「な、なにをする気なの、やだ、薬はいや!変な薬打たないで、やだっ、やめてっ、いやああっ」
「すぐに気持ちよくなるって。これを打つと皆、あんまり気持ちよすぎて小便ちびっちまうんだぜ。たっぷりと味わって天国へ行けや、ひゃははは」
「ひぎぃっ!」
背中で拘束された腕に鋭い痛みが走った。それは一本では終わらない。
二本、三本。その数は五本に及んだ。
薬の投与が終えると男は注射器をゴミ箱に投げ込み、立ち上がった。
しかしうつ伏せのまま両手を拘束され、両足をだらりと放り出した香奈が動くことはなかった。
香奈の細い肢体が小さく痙攣している。早くも薬が彼女の身体を支配し始めていた。
呼吸が荒くなる。そして意味不明な呻き声が香奈の唇を割って出始めた。
「いぐっ、いぐっ、ひっ、ひっ、ひいいいいいっ」
ジョロ、ジョロロロロ…。
やがて鼻を突く刺激臭と共に、生暖かい液体が香奈の両腿の間からこぼれ出していた。
白い湯気を上げながらそれはスカートを濡らし、絨毯に染みを広げて行く。
排尿の心地よさに香奈は微かに顔を上げて悦楽の笑みを浮かべていた。
左右の瞳は焦点を失ったまま反り返り、口からは舌をだらりと覗かせている。
そして唇の端から涎を垂れ流しながら彼女は無意識に御夜咲瞳の名前を呼んでいた。
「せんせぇ…せんせぇ…すき…あいして…る…」
男は香奈のうわ言を聞きながら苦笑いを浮かべていた。
「なんだよ、こいつズーレーかよ。おとなしそうな顔して、わからないねえ。おい、恵美子、納品の前に可愛がってやったらどうだ?」
冗談まじりに呼びかける男の言葉にしゃがみこんだままの恵美子は反応しなかった。
「…どうした?」
恵美子の顔を覗きこむ。理由はすぐにわかった。
「電子頭脳のバッテリーも切れちまったか。本当に死んじまったみたいだな。
さあて、このまま粗大ゴミに出すわけにもいかねえし…どうすっかなあ」
男の無情な言葉を浴びせられても、ただの壊れた機械人形になってしまった彼女はただひたすらに笑みを浮かべ続けるだけであった。



香奈は考えていた。
――自分は今どこにいるのだろう?
身体を包み込む圧迫感。それほど耐えられない苦しさでは無い。むしろこの圧迫感からは妙な高揚感さえ覚える。
――なんだか興奮してくる。これはどうしてかしら?
意識を研ぎ澄ませて記憶をたぐってみた。
そう、この両腕と両足に感じる圧迫感と触感には憶えがある。
高校の文化祭でダンスパーティーがあったとき、着用したドレスに合わせてはめた肘上までのシルクのロンググローブ。
それと普段から愛用して履いているロングブーツのやや窮屈な感触である。
あと乳房から股間にかけて胴体を包み込むこの感覚は「水着」、いや学生時代に着た事のある「レオタード」であろうか。
「痛っ!」
香奈は首の裏に鋭い痛みを感じて思わず声を上げていた。
途端に意識が開けた。
「えっ、なに、ここはどこ?」
最初はぼやけてよく見えなかった視界が急速に鮮明になってゆく。
「ここはカプセルの中?どうして私がこんな所に入れられているの。それにこの格好…いやだ…なにこれ…」
見れば、黒い光沢を放つロンググローブを着用させられた両腕は頭上で、また黒のロングブーツを履かされた両足も足元の金属部品により拘束されていた。
いわば宙吊りにされている状態である。
いつの間に、誰によって着せられたのかその黒い光沢を持つ衣装は革ともエナメル素材ともまた違っていた。
質感的にはラバー素材に近いであろうか。
肌にピッタリと密着し、肢体の描く緩やかな曲線を浮き立たせるグローブやブーツ、そしてレオタードからはどうしても背徳的で淫靡な印象を意識せずにはいられなかった。
「恥ずかしい、恥ずかしいよ、こんな格好…な、なに、あ、あんっ」
思わず声が出てしまった。全身を包む軽い圧迫感に加えて、レオタードの密着した部分からピリピリとした微弱な電流が流れ込んできて体内の神経を刺激してくるのだ。
この刺激から逃れようと、身をよじろうとしても両手足は固定されてしまっているので動かすことができない。
「ああっ、いやだぁ、このレオタード、おかしいよ…ピリピリって…肌が痛い…でもなんだか…いやぁ…脱がして…ヘンに…変になっちゃうぅ…」
熱っぽい息をつきながら、香奈は艶かしく頭を振り始める。
しかしやがて首の所でジャラリと音が鳴ったとき、ぎょっとしてその動きを止めた。
首輪だ。太い金属製の首輪が嵌められているのだ。そしてその首輪には意味不明の番号までもが刻印されている。
これではまるで競り市に出される家畜みたいではないか。
――思い出した。
ここがどこなのかは知る由もなかったが、おそらくあの男が言っていた「組織」の施設に違いない。薬で意識を失わされた後、ここに連れて来られたのだ。
香奈は表情をこわばらせた。
「じょ、冗談じゃないわよ、どうして私がサイボーグに改造されなくちゃいけないのよ…」
つぶやきは涙声に変わっていた。
「誰でもいい、助けて…誰か助けてよぉ…」
しかし泣いていても仕方が無いことは香奈自身よくわかっていた。
勇気を振り絞り、なんとか気持ちを落ち着けた彼女はとにかく状況を確認しようと吊られた腕の隙間から周囲の様子を覗いて見た。
暗く冷たい工場のような広い空間に同じようなカプセルがずらりと並んでいる。そしてそのどれも内部が淡い碧色の光に包まれていた。
「ちょ、ちょっと…!?」
光に覆われたカプセルの中に若い女性の姿が見えた。
もちろん一人や二人ではない。居並ぶカプセル全ての中に十代から二十代の女性たちがそれぞれ香奈と同じ姿で拘束され、捕まっていたのである。
「まさかここにいる女の子たち全員をサイボーグに改造するってわけ?…う、嘘でしょう?」
香奈はどうにかして手足の拘束を外せないか再度試みた。
「は、外れない…このままじゃ、このままじゃ…どうしたらいいの」
香奈はふと右横のカプセルを覗いて見た。高校生くらいの女の子が、必死に何かを叫んでいるのが見える。
きっと助けを呼んでいるのだろう。誰の名前を呼んでいるのだろうか。恋人だろうか、父親だろうか、それとも母親であろうか。
しかし悲痛なまでの彼女の声は聞こえてこない。
このカプセルはご丁寧に防音処理も完璧らしかった。
そのときである。カプセル内の照明が緑色から突然赤色に変化したのだ。
――マテリアル改造準備プログラム。モード2起動シマス。
女性の声を模した電子音声が鳴り響く。
「か、改造準備ですって?ま、待って、私、そんなの困るっ!う、うぎぃっ!」
また首の後ろに激痛が走った。首輪の内側に針のような物が付いているのではないかと思ったがもちろん現状では確かめることはできない。
しかしそこから何か薬品が注入されているのは明らかだった。
香奈の肢体に異常はすぐに現れた。
頭の中が薄いピンクの靄に包まれたようになって、意識が朦朧としてきたかと思うと、ずっとレオタードから感じていた刺激が途端に強くなったのである。
いや、そうではない。
香奈の感覚の方が強制的に鋭敏化させられたのだ。
「あっ、はあっ、や、やだ…なにこれ…いやぁぁ」
背骨が熱棒に変わってしまったかのような熱気が全身を包み込んでゆく。
徐々に呼吸が荒くなり、露出した肩や胸元に真珠のような汗が一斉に浮かび上がる。
「あ、熱いぃぃっ!だめぇ、我慢できないっ!あはあぁ…」
乳房を覆うレオタードの下で乳首が素材を突き破らんばかりに勃起しているのがわかる。
宙に浮いたブーツのつま先が何度も反り返るように上下を繰り返し始める。
「気持ちいい、このレオタード…体に貼り付いて…とっても気持ちいいよぉっ!ああっ、いく、いっちゃぅぅっ、いやあああああっ!!」
プシャアアアアッ。
香奈の股間から激しく飛び散った透明な液体がカプセルの壁を汚す。
「ああっ、ああっ、止まらない、いや、こんなの、初めてだよぉぉ!」
頭の中が生クリームと一緒に掻き混ぜられているような甘く不可思議な感触で満たされてゆく。
――もっと気持ちよくしてあげましょうか?
そのとき脳の中に直接女性の声が響いてきた。先の機械音声とは違い、どこか聞き覚えのある声のような気がする。
「あはあん、こ、こんなに気持ちいいのに…もっと気持ちよくなれるの?」
――なれるわ。人間の女では決して味わうことのできない快楽を私はあなたに与えてあげられる。
「人間の女では決して味わえない快楽?」
――そうよ。私に全てを委ねなさい。
「いや…いやよ…恐い…」
――私はあなたたちに新たな生命と身体を与えることができる。
そう、サイボーグとして生まれ変わるのです…。そうすればもっと、もっと、もっと、もっと気持ちよくなれるのよ。
「…もっと気持ちよくなれる?あは、あはは。素晴らしいわぁ…うふぅ、私、サイボーグに…機械にされてもいい…機械になれば…ずぅっと気持ちいいままでいられるんですよね…」
瞬間、視界が真っ白になり、理性が消滅してゆく。
「なります!サイボーグになります!早くっ、早くっ、早くっ、私を機械の身体に改造してくださいっ!!
私、もっと気持ちよくなりたいのぉっ!!サイボーグに改造してくださいぃぃぃっ!」
自分が何を考え、口走っているのか香奈にはもうわからなかった。
脳につながる神経という神経を駆け巡る電流がさらに強くなってゆく。
「ぎゃひいいいいっ!また、また、また、イクうっ!あっ、あっ、あーっ!!」
吊るされ拘束された肢体が反り返るように硬直したそのときである。
彼女を支配しようとしていたあらゆる感覚が突然消失した。
「えっ?あふっ、あふっ」
何が起きたのか全く理解できない。
強引に正気に引き戻された香奈は肩を上下させながら息を整え、もう一度左右のカプセルを覗いて見た。
カプセルの中でいまだ強制的に悶え狂わされている女性たちの姿が見える。
「な、なんなのよ、このカプセルは…むりやりこんな…」
香奈は自分の股間がぐしょぐしょに濡れているのを見て羞恥で頬を上気させた。
そして狂乱から冷めた事で驚くほど自分が冷静になっていることに気付いて思わず苦笑を浮かべた。
「私、あんまり気持ちよくってとんでもないこと口走っていた…サイボーグになりたい、改造して欲しいだなんて…」
恐ろしい推測が思い浮かんだ。いや、おそらくは推測などではあるまい。
「私、洗脳されていたの?自分からサイボーグになることを受け入れるように洗脳されていたんじゃないかしら!」
自分自身が快楽に身を任せて喚き散らしていた台詞を思い出して香奈は激しい嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
しかしあの頭に響いてきた声。あれは御夜咲瞳の声ではなかったか。
「違う、御夜咲先生はあんな冷たい喋り方は絶対にしないわ。それもサイボーグになれなんて絶対に言うはずがない!」
そこまでつぶやいて香奈はもうひとつの疑問に突き当たった。
「でも、どうして私だけ洗脳処理が止められたのかしら?周りのみんなはまだ…!?」
それは突然であった。どういうわけか、手足の拘束が解かれたのだ。
カプセルの床にお尻から落下した香奈は苦痛の悲鳴をあげる。
外気が流れ込んできた。正面を見るとカプセルのゲートが開かれていた。
「あ、あなたは…?」
そこには黒髪の女性が立っていた。
そして、その女性は香奈がずっと探し続けていた人物の一人であった。
「あなた、あなたどうしてこんなところにいるのよ?」
思わず声をあげた香奈の前に現れたのは誰あろう、親友の本庄亜里沙、本人だったのだ。
しかし感動の再会にも関わらず、亜里沙から戻ってくるのは冷ややかな無言の視線だけであった。
これまでこんなに冷たい視線をする亜利沙を見たことがあっただろうか。
「亜里沙…?」
目の前に現れた親友は首まで覆う黒いノースリーブのラバーワンピースを着ていた。手と足には香奈と同じロンググローブを着用し、ブーツを履いている。
その妖しい魅力を漂わせる姿からはとても以前のおとなしく、引っ込み思案だった彼女を連想することはできなかった。
「ど、どうしたの亜里沙、どうしてあなたがここにいるのよ。それにその格好…あはは、私も人のこと言えた義理じゃないけどね」
作り笑いを浮かべるしかなかった。
亜里沙は黙ったままである。
香奈はそんな彼女を頭から足の先までゆっくりと観察する。
彼女の顔から作り笑いが消えるまでに数秒とかからなかった。
違う。違うのだ。
体型が以前の亜里沙とはまるで違っている。彼女はこんな巨乳ではなく、もっと細身で華奢な体つきであった。
それに肌ももともと色白ではあったがこんなに雪のように白くは無かった。これではまるで血の通っていない人形のようではないか。
――人形?
香奈の顔に恐れと驚愕がない交ぜになった表情が現れた時、やっと亜里沙の表情が変化した。
やるせない怒りのまじった微笑。ずっと会いたかった親友と出会えたことの喜びの微笑。そして運命を呪うかのような哀しい微笑。
「香奈…私よ、亜里沙よ。久しぶりね…」
「あ、亜里沙…?違うわ、あなたは亜里沙なんかじゃない、私の知っている亜里沙は、亜里沙は…」
親友を拒絶しなければならないその言葉を口にして香奈の表情が苦渋に歪む。
「亜里沙に化けて一体なにをたくらんでいるのよ!私をどうしようって言うのよ!」
「落ち着いてちょうだい、香奈」
「どうして落ち着いていられるのよ!こんな状況で!!」
亜里沙の両手が伸び、香奈の体を抱きしめた。
冷たい。亜里沙の体はとても冷たい。
耳元に彼女が囁いてくる。
「どうして、どうして私の忠告を聞いてくれなかったの…。あなたを守るために私や御夜咲先生がどれだけ…」
唇を噛み締めた亜里沙の身体が震えていた。
「だって、だって、放っておけるわけないじゃない。
みんな突然私の前からいなくなって…一人ぼっちになっちゃって…探さないわけにいかないじゃない!」
「ばか、香奈の大ばか!おとなしく私の言うことを聞いてくれていればあなたの安全は保障されていたのに!」
やはり彼女は本物の本庄亜里沙だ。姿や雰囲気こそ変わってしまっているが間違いない。香奈はそう確信した。
「帰ろう、亜里沙のお母さんもすごく心配しているよ。御夜咲先生もここに捕まっているんでしょう?助け出して、みんな一緒に帰ろう!」
香奈は亜里沙が同意してくれるものと思っていた。だからカプセルから助け出してくれたに違いない。
しかし亜里沙の反応は違っていた。
「私は一緒にはいけないわ。もちろん御夜咲先生も同じよ」
「ど、どうして?」
「どうしてですって?…香奈、あなたもう気付いているでしょう?」
「な、何を気付いているって言うのよ?」
香奈から身を離した亜里沙の顔が不意に感情を失ったかのように見えた。
「私も、御夜咲先生ももう人間じゃない。私たちは機械…そう、サイボーグに改造されてしまったのよ。
ここでしか生きていくことができない体にされてしまったのよ」
「嘘よ!」
「嘘じゃ…ないわ」
亜里沙がおもむろに右人差し指を自分の左の肩口に突き入れた。そしてそのまま眉ひとつ動かさず、肘のあたりまで一気に引き裂いた。
香奈は両手を口に当てて小さな悲鳴をあげる。
傷口からは一滴の血も流れ出てこなかった。そしてその内部から露出して見えたのは灰色の金属骨格とその周囲を取り巻くように埋め込まれた細いケーブルの束、微小な電子部品の数々であった。
あの片桐恵美子と、「同じ」だった。
「わかったでしょう、私は機械なのよ。もう以前の本庄亜里沙はいない…死んだのよ。
香奈なら気付いたでしょう、さっき私の心臓の鼓動が聞こえなかったこと…私に残っているのは頭の中の生体脳だけ…それもかなり機械化されてしまっているわ。
でも私は人間の時の記憶を残してもらえているから…あなたをこうして助け出すことができたのよ」
現実を認めなければならなかった。
しかしどうして納得できようか。どうしてこんなことになってしまったのか。
「とにかく逃げてちょうだい。ここから先は私が何とかするから。ここにいたらあなたも私と同じように改造されてしまう。さあ、私についてくるのよ」
次から次に溢れ出して来る涙を両肘で拭いながら、香奈は何度も頷く。
亜里沙はそんな香奈を黙って見つめていた。
頭の中でチチチと音が鳴っている。
それが頭の中に埋め込まれている補助電子頭脳が発している警告であることを亜里沙はわかっていた。
彼女が今からやろうとしていることは組織に対する裏切り以外の何物でもないのだから。


第六話/終


戻る