<紗弥 その7>

 不意に目が覚めた。体は重かったが自由に動かすことができる。それに、見える範囲には誰もいなかった。薄暗い部屋にはシャワーとトイレ、そして彼女が横たわるベッド。部屋の一方の壁からは完全に視界が開けている。
 どのぐらいの時間が経ったのか、彼女には見当が付かなかった。小部屋から見えるのは、その広い部屋のエレベーター側の空間だけで、隣の小部屋はまったく見ることも音を聞くこともできなかった。
(由希は・・・・・)
 彼女が意識を失う前に見た由希の姿。もしかしたら由希は彼女よりも先に舞たちのようにされているのかもしれない。彼女は裸のままそんなことを思いながらまだどこかであの恍惚感を求めていることに気付き驚いていた。
 彼女は慌てたようにシャワーの方に向かい蛇口をひねる。幸い暖かい湯が出た。自分がどこかで求めているものがとても汚らわしく感じた彼女は、熱いシャワーでそれを流そうとしていた。
 ようやく落ち着き蛇口を閉めるとそれが目に入った。部屋の端に、申し訳程度に置いてあるコンビニの袋。タオルで体を拭きながら彼女は自分が空腹であることに気が付いた。袋をのぞく。中には、いくらかの食べ物と飲み物が入っていた。彼女は構わずその食料に手を付けた。
 数分で彼女はその食料を平らげた。久しぶりに人間に戻った気がすると思ったその時、彼女の視界の隅で何かが動いた。  とっさに振り返る紗弥。廊下のドアから、男が白衣の女を従えて入ってくる。女は三人、舞、陽子、そして美貴だった。裸にタオル一枚という姿の紗弥は、慌てて布団の中に潜り込んだ。
 男が、視界が開けた窓の方に近寄ってくる。そう言えばこの部屋にはドアがないと思った瞬間、その大きな窓の一角がドアになって開いた。
「気分はどうだね」男が薄笑いを浮かべながら言う。
 紗弥は、タオルの上に布団を巻き付けたまま部屋の奥へと退がっていった。部屋の中に、二人の女が入ってくる。舞と陽子だった。おそらく何を言っても無駄なのはもう分かっている。
(由希は無事なんだ・・・)
 唐突にそんな思いが浮かぶ。残りの一人が美貴だったからだ。しかし彼女が何をできるでもなかった。無表情な舞と陽子の手が容赦なく伸びてくる。
「イヤ!やめて!」そこに及んで彼女ははじめて激しく抵抗した。布団を振り回し、二人の手をなぎ払おうとする。しかし、それは無駄だった。振り回した布団は、舞ががっちり押さえ、逆にそのまま引き寄せる。
「きゃ!」
 前のめりによろけた紗弥の身体を、陽子が後ろからがっちりと、まるで台に縛り付けられた時のように締め付ける。
「一緒に来て貰おう。ようやく君の番だ」
 紗弥は男をにらみつけた。それしかできなかった。
 舞に引きずられて部屋の外に出る。そこに美貴がいた。美貴は、他の二人とは明らかに違っていた。
「美貴?」
 美貴は答えない。無機質な瞳の奥で、何かが動いている。それは、カメラのレンズのように見えた。
「美貴を・・・・どうしたの・・・」 「脳を完全に機械化しただけだ。ついでに周辺機器もな」
 答える男。
「しばらくここで待っていろ。もう一人も連れていく」
 紗弥は、由希のことだと直感した。隣の部屋にその美貴と舞が入っていく。案の定、しばらくすると由希が舞に羽交い締めにされて出てきた。
 陽子が紗弥を抱え上げる。由希は冷静に男と話をしていたが、紗弥にはその内容は分からなかった。
 剥製やらプラスチック封印やらいろいろな種類の装飾美人が並ぶ合間を抜けて、エレベーターのボタンを押す男。ドアが開く。
「イヤ!お願い、離して!」
 紗弥がじたばたと暴れた。このエレベーターを上がれば、あの冷たい台が待っている。そこに彼女は固定され、舞や陽子のようにされてしまうのだ。絶望に包まれながら彼女は必死に手足を動かしたが、陽子はまったく動じない。しかし、さすがに紗弥もふつうの女性分の重量はあるせいか、彼女を抱えた陽子の身体は揺れ動いていた。
「あまり騒ぐとまた大人しくして貰うよ」
 男がが言う。紗弥の顔が引きつった。催眠術をかけられ、男の言うがままになってしまったときのことを思い出す。その時の意外な心地よさが、今ではおぞましいものに思える。男の言葉一つで心地よく操られてしまう自分が恐ろしかった。
「いや・・・・いや・・・・」
「何なのよ!?」由希が言うが、次の瞬間、
「あなたはもう何も考えることができない人形です。命令されたこと以外はなにもできません。私の言うことを復唱しなさい」
 男の言葉が耳に飛び込んできた。それは、絶対的なものとして紗弥の頭の中に響いた。彼女が絶望を感じた次の瞬間、彼女は意志に反して従順に復唱していた。
「わたしは何も考えることができない人形です。命令されたこと以外はなにもできません」
「着いてきなさい」
「はい」
 してはいけないと分かっていても、口が勝手にそう答えてしまう。そう答えることによって彼女は心地よくなっていく。
 エレベーターのドアが閉まった。
「彼女に何をしたの・・・・」由希が男に聞いていた。
「彼女には催眠術をかけてある。キーワードを囁けばすぐにこの通りだ」
 男が答えている。しかし、紗弥は今や何も考えることのできない人形だった。二人のやりとりは耳に響いているが、彼女はそれに対して何も感じることができなかった。
 陽子が紗弥を降ろした。紗弥はゆっくりと立ち上がった。そうしなければいけないのだ。
「君もあまり言うことを聞かないようなら彼女のようになって貰う・・・マイ、彼女を降ろしたまえ。紗弥君、彼女をしっかりと押さえなさい」
「はい」
 唐突に与えられた命令に、彼女は疑問を浮かべることもなく従った。
「ちょっと紗弥!目を覚まして!」
 由希は抵抗したが紗弥は彼女を押さえることができた。命令に従うのは心地の良いことなのだ。相変わらず考えることはできなかったが、彼女は何とも言えない心地よさを感じていた。
 やがてドアが開き、彼女たちは再び四階の研究室に降り立った。
「紗弥君、マイと二人で彼女を部屋に閉じこめてくれたまえ」
「はい」
 再び命令が与えられる。彼女にはどうするべきかが分かっていた。研究室の脇にある小部屋に由希を閉じこめなければならないのだ。
「イヤよ!やめて!」由希は抵抗するがやがて部屋に閉じこめられた。
「さて、紗弥君、君にも生まれ変わって貰うことにしよう」
「はい」紗弥は肯いた。
「ダメ!紗弥!目を覚まして!!」由希の声が聞こえていたが、紗弥は何も思わなかった。そして、その声もすぐに聞こえなくなった。
「台に横になりなさい」
「はい」
 紗弥は、言われたとおりに台に横になった。舞に手足を固定されていくが、恐怖や嫌悪感は何も感じなかった。やがて、作業が終わり男が言った。
「はい、気分良く目覚めなさい」
 目をぱちくりさせる紗弥。彼女はすぐにその感触を思い出し、自分の置かれた状況を把握した。
「イヤ・・・・・」彼女の視界にその姿が入った。青い手術衣を羽織る男。紗弥は恐怖に顔を引きつらせた。いよいよ彼女の「処置」が始まるのだ。
「怖がることはない。すぐに恐怖は感じなくなる。それだけではない。君はすべての感情から解放され生まれ変わるんだ。催眠術のように不安定なものでなく制御装置が君の脳を効率よく制御してくれる。悩みも苦しみも永遠に消えてなくなる」
 舞がトレイに注射器を載せて男に近づいて来る。
「イヤ・・・・イヤぁ!」
 紗弥の悲鳴にも動じず注射器を取る男。虚ろな目の舞が立っている。そして、美貴は部屋の片隅でその光景を見ているのかいないのか、ただ突っ立っているだけだった。
「安心しろ。今度目が覚めたときには君も舞君のように立派な人形になっている。もっとも、今現在の自意識は消滅するがね。いや、君の場合は違うんだった。次に目が覚めてもまだ君のままでいられるよ。たぶんな」
 首筋に痛みが走る。
「アアアアア・・・」
 彼女は悲鳴にならない声を上げたがそれは長く続かなかった。身体の感覚が失われ、気が遠くなっていく・・・・・


 不意に、彼女は激痛を感じた。思わず悲鳴を上げてしまう。
「ん・・・・アァ・・・」
「フフフ・・・・そうだろう。今楽にしてやろう」
 男の声とともに、痛みは嘘のように消え去った。ゆっくりと、彼女は目を開けてみた。
「どうかね、気分は」男が話しかけてくる。
 彼女は自分がどうなったのか理解できないでいた。首筋に注射をされて、意識がなくなったのは分かっている。しかしそのあと、意識がよみがえるとはどういうことか・・・・
 紗弥はきょろきょろと辺りを見回してみた。相変わらず青い手術衣を着た男が楽しそうに彼女の顔をのぞき込んでいる。
「あたし・・・・どうなってるの・・・・」思わず聞く紗弥。
「どうやらうまくいっているようだな」男が答える。
「あたし・・・まだ・・・・」
 彼女は、自分がまだ何もされていないという淡い希望を抱いた。もしかしたら男は「処置」を思いとどまったのかも・・・・
「マイ、鏡を持ってきたまえ」
 舞が、キャスター付の姿見を転がしてきて紗弥の前に立てる。
「どうかな、今の君の姿だ」男が言い放つ。その顔は、楽しんでいるようにも見えた。恐る恐る鏡に目をやった紗弥は、思わず悲鳴を上げた。
「イヤぁ・・・・・・!」
 機械の部品を取り付けられた自分の脳。しかし目を閉じて叫ぶだけで身体そのものはピクリとも動かない。
「よし・・・・異常なしだ。君には新しい機能を付けさせて貰った。さっき君の自意識は消えると言ったがいくらかそれを残してあげよう」
「イヤ・・・・」目元が弛むが、涙が出てこない。それが、彼女が改造されてしまったことを裏付けていた。
「不思議に思わないかね?その状態で意識があるということを。君の生体脳は機械によって生かされているのだ。痛みの感覚もさっき遮断したから今は感じないはずだ。君が自意識によって動かせるのは両目と鼻、口、そして声帯ぐらいなものだ。あとの部位には生体脳からの命令をシャットダウンするように設定した」
「そんなこと・・・・そんなこと・・・・」
 男が何を言っても、もうどうにもできない。男は彼女のその姿を見て続けた。
「わかったかね、これがライブモードだ。さっきの痛みにも今の心理的衝撃にも機械が耐えている。君への処置はこれで八十パーセントは成功だな。では起動テストをしよう」
 男が端末の横からまだケーブルに繋がれたリモコンを取り出す。
「イヤ・・・・やめて・・・・お願い・・・イヤぁ!」
 恐怖に震える紗弥。自分がリモコンで操作されるなどということは、想像を絶するというよりも耐え難いことだった。しかし男は容赦なくボタンを押す。ピクリともしなかった紗弥の身体が一瞬勝手にビクッと震える。そして、紗弥の意識は別のものに奪われていった。
「キドウシマス・・・・システムチェック・・・・OK」
 抑揚のない自分の声を聞きながら、彼女は彼女でなくなっていった。


「あ・・・・え・・・・」自分の声で、彼女は再び我に返った。
「気分はどうかな」
「わたし・・・・」
 彼女は悟った。さっきよりもひどい状態にされたのだということを。
「フェーズ2までの処置は終わった。次の処置で君は完全に私の作品として完成する事になる」
 紗弥は、目を伏せた。絶望が押し寄せる。そして彼女は自分が今できる事を思いついた。口を少し開くと、舌を歯の間に挟み思い切り閉じる。そこで彼女の意識はとぎれた。


「あ・・・・イヤ・・・・・」それは、自分の声だった。
(どうして・・・)
「フフフ・・・」男が笑いながら紗弥の顔に自分の顔を近づけてくる。
「はじめからリミッターをかけるとは良い度胸だ。言っておくが今のように自傷行為を働こうとしてもリミッターがかかってライブモードが強制終了するだけだ。気にすることはない。君の意識はゆっくりだが変容していく。自分の運命を受け入れるのだ。そうすれば苦しむこともない。君の自意識は君の制御システムに学習させるために残しているに過ぎん」
 彼女の企ては機械に阻止された。彼女の身体は、既に彼女のものではないのだ。
「お願い・・・・」紗弥は必死で言った。
「何だ?」男が笑みを浮かべながら答える。 「殺して下さい・・・お願いです・・・・ダメならせめて意識を消して・・・・舞や陽子みたいにして下さい」
 彼女には、もうそう願うことしか残されていなかった。身体を動かすこともできず、死ぬことすらできない。彼女には、それは生き地獄だった。
「そうはいかん。君にはその自意識をいつまで保っていられるかのサンプルになって貰う。命令に従うことに何の疑問も覚えないようになってしまえば、君の自意識はおそらく自然に制御装置に取り込まれる。ライブモードでも通常モードと同じように考え、発言するようになるだろう。そこまでのプロセスのデータが欲しい」
「お願いです!舞や陽子みたいにわたしも完全にロボットにして下さい!」
「駄目だと言っているのに。しばらく黙っていろ」
 リモコンを押す男。再び意識が侵食されていく。彼女は望み通りロボットになった。


 そして・・・・
 再び意識が戻った。もう諦める他はないようだった。彼女は男のなすがままに意識を戻され、意識を奪われる。もう彼女にできることは何もなかった。
 間の前に、頭部を切開され脳を露出させられた由希がいた。由希ももう紗弥と同じようにロボットにされてしまうのだろう。
「由希・・・・」
「紗弥・・・・」
 お互いの意識を認め合う。しかし二人とも元のままでいるのはこの意識だけだった。由希にもすぐに分かることだろう。彼女たちはもう男の思うままになるしかないのだということを・・・
「感動の対面だな・・・・これで君も彼女たちの仲間だ」
 男がリモコンを由希に向ける。
「イヤ・・・イヤァ!」
 由希が叫ぶ。しかし男は容赦なくボタンを押した。 由希の顔が瞬く間に無表情になり、その口から、機械的な話し声が流れ出した。
「キドウシマス・・・・システムチェック・・・・・・・・・」
 紗弥は、自分がどうなったのか、完全に理解した。そして、男が早くリモコンを押してくれることを願った。男は、はじめて彼女の期待に応えた。


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