<由希 その6>

 四階のエレベーターを降りた瞬間、由希は遠くで悲鳴のような声が聞こえた気がした。
(紗弥!?)
 慌てて最初に入った部屋のドアを無造作に開ける。しかし、そこは薄暗く誰もいない。と、その時、廊下の向こうの方で足音が聞こえた。彼女はそのまま部屋に入りドアを閉め、そしてドアに張り付いて廊下の様子を伺った。
 足音はどんどん近づいてくる。音からして複数なのだが、妙に息が合うというより、まるで意図的に足並みを合わせているような一定の足音だ。由希はおそらくそれは舞と陽子、いやその二人の例の「偽物」だろうと思った。さっき見かけた彼女たちの歩き方が、まさにそうだった。そして、その足音は部屋の前で止まった。思わずドアから離れてソファーの陰に隠れる由希。しかし、足音は止まったまま、何の動きも見せない。
(どういうつもりなんだろう・・・・)
 由希は不安になりはじめた。二人は、おそらく彼女がこの部屋にいることを知っている。そして、その彼女をどういうわけか見張っているのだ。
 時間が過ぎていく。部屋の中だけでなく窓から見える外の景色もどんどん暗くなっていく。時計を見るともう七時近かった。しかし依然として足音が去っていった気配はない。
(そうだ・・・・)
 由希は携帯をとりだした。メモリーから紗弥の番号を拾い出し電話をかける。
『RRRRRR・・・・・』
 呼び出し音が鳴る。二回・・・・三回・・・・しかし、紗弥は出ない。
(紗弥、ごめん・・・・・)
 そう思って電話を切ろうとした時だった。唐突に、電話が繋がる。
『もしもし』
 電話の声に紗弥は背筋が冷たくなった。男の声は、続けて言った。
『悪いが彼女は今出られない』
「紗弥を・・・・どうするつもり・・・・」震える声でなんとか言い返す由希。
『ああ、君か。勝手に消えられちゃ困るな。まあ、しばらくしたら彼女に会わせてやる。それまでそこで大人しくしているんだな』
「こんな事をして・・・・警察に言うわよ」
『言ってみたらいい』
 由希は驚いた。男は「警察」と言われてもまったく平然としている。
「そんなハッタリなんて通じませんからね。すぐに電話してやるわ」言い返す由希。
『どうしてもと言うなら止めないが、はっきり言って無駄だよ。ここは今では公式には存在しないことになっているし・・・・まあ君が電話してくれた方が我々は助かるがね』
「どういう意味よ」
『後で君たちの存在を消す手続きが一つ省けるからさ』
「存在を・・・消す・・・?」
『そうだ。すでに陽子君まではこの世に存在しなかったことになっている。彼女に関する記録は今朝方完全に消去された』
「そんな・・・・私は・・・・」
『君たち、いやたとえ彼女の肉親がなんと言っても戸籍や記録が抹消されてしまえばその人間は存在しなかったことになる。何を言っても裏付けがなければただの妄想にすぎんということにな』
「陽子たちをどこへやったの」
『陽子君と舞君は君の部屋の前にいるよ。美貴君はここにいる』
「嘘よ。本物の彼女たちはどこ?」
 しばらくの沈黙のあと、男は答えた。
『君は何か勘違いしているようだ・・・・・マイもヨウコも間違いなく君の部屋の前にいる。嘘だと思うなら確かめてみるがいい。君が突飛な行動をとらない限り危害は加えない』
「嘘!彼女たちは偽物だわ。本物の舞たちなら・・・・・そんな・・・・」
 由希は彼女の推測と別の可能性に気が付いた。
「ちょっと、舞たちに何をしたの?」
『彼女たちには人形になって貰った』
「人形って・・・洗脳でもしたの?」
 由希の脳裏に、怪しげな宗教団体のセミナーが浮かぶ。参加者は修行などと称して薬を飲まされたり怪しげな部屋に閉じこめられて精神的に破壊され、教団の従順なロボットとなるように洗脳されてしまう。有名な女優がある教団の広告塔にされていたことも雑誌などで読んでいた。
『洗脳か。洗脳にもいろいろあるしそれはそれで需要があるが洗脳されても人間は人間にすぎん。人間は老いるが人形は老いない。彼女たちは人形に生まれ変わったのだ。間もなくここにいる紗弥君も生まれ変わる。そして君もだ』
 ドアが開いた。白衣を着た舞と陽子が無表情で立っている。
「舞・・・・陽子・・・・・」
『ここに来たまえ。君にもその素晴らしさを教えてやろう』
 電話が切れる。と同時に舞と陽子が部屋に入ってきた。
「お願い、やめて・・・・」
 後ずさる由希。しかし二人は躊躇う様子もなく由希に迫る。やがて窓際に追いつめられた由希の腕を二人の腕ががっちりと押さえた。
「離してよ!」由希がいくら暴れても二人の腕は離れない。彼女はそのまま二人に引きずられていった。


 ドアが開いて、由希は別の部屋に連れ込まれた。さっき、彼女が見た「缶詰造り」の部屋と同じように、いろいろな機械が並んでいる。そしてその部屋の端に、何かが立っていた。
「美貴・・・・・」
 美貴は裸のまま直立不動の姿勢でピクリともせずに立っていた。その耳の後ろから、何かのケーブルが伸び端末に繋がれている。その端末のキーを男が難しい顔をして叩いていた。
「あなた・・・・美貴に何をしたの!?」
 男は今気付いたように顔を上げるとふう、と一息ついた。
「どうも制御装置と生体脳の相性が悪いみたいでね・・・・脳の記憶とアクセスするたびにエラーが出る。一度エラーが出るとほとんどフリーズだ。演算パターンについてはあまり問題がないみたいなんだが・・・・」
 美貴は相変わらずピクリともせずに虚ろな目で虚空を見つめている。まるで地下にあった「飾り物」のように・・・・
 彼女と男のやりとりに反応せず、舞と陽子は由希を部屋の中にある小部屋に閉じこめた。その小部屋には大きな窓があり、研究室のようなその部屋の内部を見渡せるようになっている。その由希の目に、今度は目の前の台に横たわるものが見えてきた。
「紗弥!?」
 それは紛れもなく紗弥だった。虚ろな目を開いたり閉じたりしながら、痙攣と弛緩を繰り返している。口からは痙攣と同時に鋭い叫び声のような声が漏れていた。
「紗弥!!」窓を叩きながら叫ぶ由希。しかし紗弥は由希の方には反応しない。うつろな表情は舞や陽子、そして美貴に比べれば遙かに人間的だったが、心が別世界を探訪中のように目の焦点が合っていない。その横に、男の指示をすべてこなしたのか舞と陽子が白衣のまま直立する。
 しばらくして、由希がバタバタと窓を叩くのに気付いたのか男がマイクを通して話しかけてきた。
「騒いでも無駄だよ。彼女は今とても気持ちがいいんだ。彼女から採集したデータの一部は機関の方にもリアルタイムで流されているから、もうじき彼女の存在を消す作業が始まるはずだ」
「そんな・・・・」動きを止め、男の言葉に聞き入る由希。
「気にすることはない。君の存在もちゃんと消して貰えるから安心して人形になるがいい。マイはともかくヨウコは本当に役に立つ。彼女のおかげで、この数時間足らずのうちに残っていた課題の半分以上が解決できた。これで紗弥君を加えれば課題はほとんど解決するだろう。君には製品版の試作になって貰えるはずだ」
「イヤよ!わたしをここから出して!!」
「今は出せない。ミキの調整が終わってから紗弥君の処置を行う。それで今日は終わりだ。たぶん深夜になるだろう。それから少し休んで・・・・君の番は明日の昼前になるだろう。そのぐらいになったらそこから出してあげよう。それとも地下の方がいいかい?」
 彼女は地下の、誰もいなかった部屋を思いだした。あの部屋は彼女のような哀れな娘を捕らえておく場所なのだ。彼女は何も言わなかったが男は続けた。
「どちらにしろ紗弥君の処置が終わるまではそこにいて貰う。しばらく退屈だろう、ヨウコに相手をさせよう」
 男が陽子に指示を与える。陽子はやはり機械的な動きでドアを開けると部屋に入ってきた。その外で、舞が再び鍵を閉める。
「由希」陽子の口から声が漏れる。それは紛れもなく陽子の声だったが、口調は明らかに陽子のものではなかった。
「陽子・・・・」
「黒江様の命令で、話し相手になりにきたわ」抑揚のない、淡々とした口調で陽子が言う。その様子に由希は驚愕した。目の前にいるのは確かに陽子だったが、舞と同様明らかに彼女の知っている陽子ではなかった。
「陽子・・・・」
「なあに」一瞬の後、答える陽子。表情はまったく変わらず、言葉からは感情というものがまったく感じられない。由希は陽子が「人形」にされてしまったことを実感した。
「陽子・・・・・」手を伸ばし、陽子の頬に触れる由希。かつて、ふざけて突っついた時と同じ柔らかな感触がそこにはある。袖からのぞく素肌も見た感じまったく変わったところはない。それがなおさら由希を驚かせていた。男は「人形は老いない」と言った。ということは、陽子はこの肌のまま老いないということである。この姿のまま彼女は存在し続ける。将来の夢や、ロマンスへの憧れとは無縁の存在となって・・・・
「陽子、どうしてこんなことになっちゃったの・・・」
 一瞬の後、陽子の口から声が発せられる。
「わたしは舞に連れられてこの研究所へ来て、美貴の後に黒江様に改造処置を施されることによって現在の状態になったの」
 そんなことを聞いているんじゃないわ、と由希は言いかけてやめた。陽子の声でしゃべっているのは陽子ではなく、黒江というらしい男が言うところの「制御装置」なのだろうと彼女は悟っていた。美貴はともかく陽子の脳はその「制御装置」との「相性」がいいのだろう。
 由希は、陽子の言葉に何も返さなかった。何かを返しても無駄なだけでなく、彼女が聞きたくない、本当に単純な問答のような答しか返ってこないだろうということを薄々感じ始めていた。駅で舞と会ったときもそうだった。舞、いやその「制御装置」は彼女たちの問いかけに対してことごとく馬鹿正直な答を発音させていた。由希にはそれが、男の言うところの「相性」がいいとはとても思えなかった。
 もっとも、こういう風に何も考えずに(といっても制御装置はそれなりに考えているが如く計算してはいるのだろうが)単純な答だけを出す従順なロボットなら、たしかに欲しがる男はいくらでもいるだろう。自分だけに忠実な奴隷女。これで肉欲の対象にでもなれば・・・・
 そこまで思い至って由希は恐ろしい現実に気付いた。陽子の身体の感触は、以前のそれとまったく変わらない。ということは、誰にとっても同じ感触、すなわちそのような男にとって肉欲の対象に十分なり得るということだ。「制御装置」によってコントロールされた上「買い主」の肉欲の対象にされるなど彼女にとって想像するだけでもおぞましかった。そして、このままでは自分もそうされる・・・・
「陽子、お願い目を覚まして。元の陽子に戻ってよ・・・・」
 無駄と知りつつ陽子に呼びかける由希。しばらくの沈黙の後、陽子が答える。
「わたしは起きているわ。元からわたしは陽子。戻ってという意味は理解できない」
 由希の胸に絶望が拡がっていく。陽子の返答は明らかに非人間的だ。陽子も舞と同じロボットにされてしまったのだということを彼女は改めて思い知らされた。
「ねえ陽子、お願い、わたしをここから出して・・・・陽子も帰りたいでしょ?」由希は半ば諦めたように言う。しかしやはりと言うべきか、陽子は無表情に応えた。
「由希はここから出せない。わたしは帰りたくない」
「陽子!あなた自分が何をされたかわかっているの?」
「わかっているわ。わたしは黒江様に改造処置をされたの」
 何を言っても無駄だった。陽子は律儀に由希の質問に答え続ける。由希が聞いているのとはまったく見当違いの答を。
 やがて由希は、陽子らしい反応を探り出すのを諦めた。目の前に座る陽子も、由希の沈黙に合わせるように沈黙した。


「あ・・・・うう・・・・」
 不意に、スピーカーを通してトーンの違う声が由希の耳に入ってきた。ピクリとも動かず座っている陽子の前でウトウトしかけていた由希は、その声を聞いて窓から広い部屋の方を覗いた。
「紗弥!?」
 ゆっくりと首を回し、辺りを見回す紗弥。
「由希、なの?」鬱陶しい、というより気怠そうな声で応える紗弥。
「紗弥、大丈夫?」
 紗弥が固定されている台の周りには誰もいなかった。紗弥は、まだ電極の取り付けられた胸を大きく上下させながらゆっくりと辺りを見回していた。さっきのように痙攣こそしないが、彼女の身体は弛緩しきっており、表情はまだどこか虚ろだった。
「由希・・・どこ・・・?」
 息が切れそうな声でつぶやく紗弥。スピーカーを通しているだけに声は聞き取りづらい。紗弥が音の方向を見ても由希がいないのは明らかだった。
「ここよ」由希は窓を叩いた。ゆっくりと顔を向ける紗弥。その時、太い男の声がスピーカーから響いた。
「少し静にしていて貰えないか」黒江の声だった。明らかに苛立っている。
「うるさいわね!人をこんなところに閉じこめて」悪態をつく由希。
「仕方がない。君たちには黙っていて貰おう」
「なんですって・・・・」
 しばらくすると、窓の外で舞が動いているのが見えた。白衣のまま右手に何かを持って台に固定されている紗弥に近づいていく。
「いや・・・・やめて・・・お願い・・・・舞!」
 紗弥の、疲れきったような怯えた声が響いてくる。
「紗弥!」
 窓に張り付いて叫ぶ由希。しかしそんな二人の反応には容赦せず、舞はその右手に持った物、注射器を紗弥の首に滑り込ませた。
「ア・・・アア・・・・」
 目を剥く紗弥。そのまま紗弥は力無く目を閉じ動かなくなった。
「紗弥に何をしたの!!」叫ぶ由希。答はない。程なく、小部屋のドアが開き舞がやはり注射器を持って部屋に入ってきた。
「何をするのよ・・・・」
 舞は何も言わず近づいてくる。そして、今までピクリともせずそこに座っていた陽子が立ち上がった。そして、舞より先に陽子が由希の身体を押さえる。
「イヤ、イヤよ」
 由希は抵抗するが、それが無駄なのはわかっていた。程なく、舞の手が首筋に添えられるとチクリという痛みが走った。
「あ・・・・」
 身体から力が抜けていく。由希の意識はそのまま遠のいていった。


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